長谷堂城の戦いの解説
長谷堂城の戦いは、1600年(慶長五年九月〜十月)に出羽国 長谷堂で行われた合戦です。関ヶ原と同じ月、北の関ヶ原。直江兼続の上杉二万が最上義光の長谷堂城を囲むも、本戦敗報で一転。前田慶次が殿を務めた撤退戦は「東北一の退き口」と讃えられた。
- 年
- 1600年慶長五年九月〜十月
- 場所
- 出羽国 長谷堂
- 時代
- 安土桃山時代
両軍の対陣
合戦の経過時刻は3Dの時計
- 九月十三日1章
畑谷畑谷城、燃ゆ
慶長五年九月、家康が西へ向かった隙を突き、上杉景勝は最上義光の領国へ兵を出した。総大将は直江兼続、二万余。九月十三日、まず国境の畑谷城を攻め、城主江口光清は五百の城兵と共に討死する。北の関ヶ原の幕開けであった。
- 九月十五日2章
包囲菅沢山に本陣
兼続は山形城の喉元、長谷堂城に迫り、北西の菅沢山に本陣を据えて城を包囲した。城を守るは志村光安、わずか千。援軍を頼めぬ最上義光は山形城で決戦に備え、伊達政宗に救援を乞う。
- 九月十七日3章
攻防落ちぬ小城
上杉勢は連日城に攻め寄せたが、志村光安は夜襲と鉄砲で巧みに撃退する。焦った兼続は総攻めを命じ、上泉泰綱が城際まで肉薄したものの、城兵の逆襲を受けて討死した。小城ひとつが、大軍を半月も釘付けにした。
- 九月二十四日4章
援軍伊達の援軍
義光の要請に応え、政宗は叔父・留守政景に三千を預けて派遣した。伊達勢は山形城下の東、小白川に着陣する。しかし政宗の真意は静観にあり、援軍は容易に前へ出ない。
- 九月二十九日5章
敗報関ヶ原、破れたり
九月末、上方から早馬が駆け込む。西軍は九月十五日、関ヶ原で一日にして敗れた。長谷堂を攻める意味は失われ、兼続は撤退を決断する。だが眼前には、勢いづく最上と伊達の軍勢があった。
- 十月一日6章
退き口前田慶次、殿を務む
十月一日、上杉勢は菅沢山を捨てて南へ退いた。義光と伊達勢は総力で追撃をかける。殿を務めたのは前田慶次と水原親憲。慶次は朱槍を振るって追手を突き崩し、水原の鉄砲隊が義光の兜に銃弾を浴びせた。兼続自らも槍を取り、大軍を一兵も乱さず退かせた。
- 十月四日7章
帰還東北一の退き口
十月四日、兼続は米沢へ帰り着いた。家康はこの撤退を「兼続の指揮は見事」と評したと伝わる。義光は失った庄内を取り返して五十七万石の大大名となり、上杉家は三十万石へ減封された。北の関ヶ原は、こうして終わった。
超精密3Dで見ると合戦パスの特典

同じ場面を、標準の画質と超精密3Dで並べました。線を左右に動かして見比べられ、「引き」と「接近」で見え方を切り替えられます。超精密3Dでは、山肌の尾根と谷、3Dの森と岩、海や川の水面、田畑の筋、人の姿の兵まで精密に描きます。各合戦の1章目は、合戦パスが無くても超精密3Dで見られます。
よくある質問
長谷堂城の戦いとは何ですか?
関ヶ原と同じ月、北の関ヶ原。直江兼続の上杉二万が最上義光の長谷堂城を囲むも、本戦敗報で一転。前田慶次が殿を務めた撤退戦は「東北一の退き口」と讃えられた。
長谷堂城の戦いはいつ・どこで起きましたか?
1600年、出羽国 長谷堂(慶長五年九月〜十月)で起きた合戦です。
長谷堂城の戦いでは誰が戦いましたか?
上杉軍の直江兼続、最上・伊達軍の最上義光らが戦いました。
長谷堂城の戦いを3Dで見られますか?
はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。
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