文永の役の解説
文永の役は、1274年(文永十一年十月二十日)に筑前国 博多湾で行われた合戦です。元と高麗の軍およそ三万が、九百隻の船で博多湾に攻め寄せる。九州の御家人がてつはうと集団戦に苦しみながら迎え撃ち、日本軍は水城まで退くが、元・高麗軍は一夜のうちに船で去った。一度目の元寇。
- 年
- 1274年文永十一年十月二十日
- 場所
- 筑前国 博多湾
- 時代
- 鎌倉時代
両軍の対陣
合戦の経過時刻は3Dの時計
- 午前6:151章
襲来大船団、博多湾へ
モンゴル帝国の皇帝フビライは国号を元と改め、日本に従うよう求める国書を送った。鎌倉幕府の執権・北条時宗はこれを退ける。文永十一年十月、元と高麗の軍およそ三万が、九百隻ともいわれる船で海を渡った。対馬・壱岐を襲い、十九日、博多湾に姿を現す。
- 午前7:302章
上陸百道原に上陸
二十日の朝、元・高麗軍は湾の西の百道原や今津などに上陸し、麁原の丘に陣を構えた。迎え撃つのは、大宰府の少弐資能の子・景資を大将とする九州の御家人たち。博多の息浜に集まって、敵を待ち構えた。
- 午前9:303章
赤坂菊池武房、赤坂に駆ける
赤坂の松原に陣取った敵に、肥後の菊池武房が攻めかかって追い散らした。討ち取った首を掲げて引き揚げる菊池勢の姿は、『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。敵は鳥飼潟や麁原の方へ退いた。
- 午前11:304章
鳥飼潟竹崎季長の先駆け
肥後の御家人・竹崎季長は、わずか五騎で退く敵を追い、鳥飼潟で一番に斬り込んだ。「先駆け」は何よりの手柄である。炸裂する「てつはう」の中で馬を射られ、自らも傷を負ったが、肥前の白石通泰の一隊が駆けつけて敵を押し返した。
- 午後1:305章
苦戦てつはうと集団戦
元・高麗軍は太鼓や銅鑼を合図に集団で動き、毒を塗った矢や、音と煙を上げて炸裂する「てつはう」で攻め寄せた。名乗りを上げて駆け向かう武士は苦しめられたと伝わる。博多の町や筥崎宮も焼かれた。追ってきた元の副元帥・劉復亨は矢を受けて傷ついた(射たのは少弐景資と伝わる)。
- 午後4:306章
水城水城へ退く
夕刻、日本軍は博多を離れ、大宰府を守る水城まで退いた。水城は、およそ六百年前の白村江の戦いのあと、唐と新羅の攻めに備えて築かれた堤である。元・高麗軍はそれ以上は追わず、日が暮れた。
- 午後8:007章
撤退消えた大船団
その夜、元・高麗軍は船へ引き揚げ、翌朝には博多湾から姿を消していた。兵の疲れや矢の不足、日本の援軍への警戒から引き揚げを決めたと元・高麗の記録は伝え、その夜に大風雨にあって多くの船が壊れたとも記す。のちに「神風」と語られたが、嵐の大きさには今も議論がある。
よくある質問
文永の役とは何ですか?
元と高麗の軍およそ三万が、九百隻の船で博多湾に攻め寄せる。九州の御家人がてつはうと集団戦に苦しみながら迎え撃ち、日本軍は水城まで退くが、元・高麗軍は一夜のうちに船で去った。一度目の元寇。
文永の役の読み方は?
「ぶんえいのえき」と読みます。
文永の役はいつ・どこで起きましたか?
1274年、筑前国 博多湾(文永十一年十月二十日)で起きた合戦です。
文永の役では誰が戦いましたか?
日本軍の少弐景資、元・高麗軍の忻都らが戦いました。
文永の役を3Dで見られますか?
はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。