弘安の役の解説
弘安の役は、1281年(弘安四年)に筑前国 博多湾・肥前国 鷹島で行われた合戦です。東路軍と江南軍、あわせて十四万の元軍が再び海を渡る。博多湾の石築地に上陸を阻まれ、志賀島で日本軍の夜襲を受けたのち、伊万里湾の鷹島に集まった大船団を、閏七月一日の大風が襲った。二度目の元寇。
- 年
- 1281年弘安四年
- 場所
- 筑前国 博多湾・肥前国 鷹島
- 時代
- 鎌倉時代
両軍の対陣
兵力の内訳3Dに登場する部隊の合計
本陣 15,000戦った 6,600戦わず 8,000
戦った 36,000戦わず 6,000
戦った 100,000
合戦の経過時刻は3Dの時計
- 弘安四年 五月1章
石築地石築地を築いて待つ
文永の役のあと、執権・北条時宗は九州の御家人に博多湾の守りを命じ、湾岸およそ二十キロにわたって石の防塁「石築地」を築かせた。降伏を求めて来た元の使者は斬られた。弘安四年、元は朝鮮半島から東路軍およそ四万を、中国の江南から江南軍およそ十万を送り出す。
- 六月六日2章
襲来上陸を阻む石築地
六月六日、対馬・壱岐を襲った東路軍が博多湾に現れた。だが海岸には石築地が連なり、その上に武士たちが待ち構えていて、上陸できる浜がない。東路軍は湾の入り口の志賀島と能古島に兵を上げ、船をつないだ。
- 六月八日3章
夜襲志賀島の戦い
日本軍は小舟で夜ごと敵船に斬り込み、海の中道を通って志賀島へも攻め寄せた。伊予の河野通有は矢を受けながら敵船に乗り移って戦ったと伝わる。数日にわたる激しい戦いのあと、東路軍は志賀島を離れ、壱岐へ退いた。
- 六月下旬4章
江南軍遅れて来た江南軍
江南軍は出発が遅れ、六月の末から七月にかけて、ようやく肥前の平戸のあたりに着いた。壱岐では東路軍と日本軍の戦いが続き、船の中では病も広がっていた。二つの軍は、合わせて四千隻を超える船を、伊万里湾の鷹島のあたりに集めていく。
- 七月下旬5章
鷹島鷹島に集う大船団
七月の末、東路軍と江南軍の大船団は鷹島のまわりの海を埋め、博多や大宰府へ攻め入る支度を整えていた。九州の武士たちは海岸を固め、その時を待った。
- 閏七月一日6章
大風閏七月一日の大風
七月三十日の夜から閏七月一日にかけて、大風雨(台風)が鷹島の沖を襲った。つなぎ合わせて並べた船は互いにぶつかって砕け、多くの兵が海に沈んだ。鷹島の海底からは、今も元の船の材木や武器、てつはうが見つかっている。
- 閏七月七日7章
掃討鷹島に残された兵
大風のあと、江南軍の総司令・范文虎らは壊れずに残った船で引き揚げ、鷹島には多くの兵が置き去りにされた。閏七月七日、日本軍は鷹島に攻め寄せ、残った兵の多くを討ち、あるいは捕らえた。元はその後も三度目の遠征を計画したが、果たされることはなかった。
よくある質問
弘安の役とは何ですか?
東路軍と江南軍、あわせて十四万の元軍が再び海を渡る。博多湾の石築地に上陸を阻まれ、志賀島で日本軍の夜襲を受けたのち、伊万里湾の鷹島に集まった大船団を、閏七月一日の大風が襲った。二度目の元寇。
弘安の役の読み方は?
「こうあんのえき」と読みます。
弘安の役はいつ・どこで起きましたか?
1281年、筑前国 博多湾・肥前国 鷹島(弘安四年)で起きた合戦です。
弘安の役では誰が戦いましたか?
日本軍の少弐経資、東路軍の忻都、江南軍の范文虎らが戦いました。
弘安の役を3Dで見られますか?
はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。