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金ヶ崎の退き口

元亀元年四月二十八日

午前6:00 出陣
東軍 西軍 寝返り

金ヶ崎の退き口
合戦データを読み込み中

金ヶ崎の退き口かねがさきののきくちの解説

金ヶ崎の退き口は、1570年(元亀元年四月二十八日)に越前国 敦賀で行われた合戦です。越前に攻め入った信長を、義弟・浅井長政の離反が襲う。前に朝倉、背後に浅井。信長は朽木谷を抜けて京へ逃れ、金ヶ崎城に残った秀吉らが殿を務めた。

年
1570年元亀元年四月二十八日
場所
越前国 敦賀
時代
戦国・安土桃山

両軍の対陣

織田軍 総大将織田信長 21,5006隊
朝倉・浅井軍 総大将朝倉景恒 21,0004隊

兵力の内訳3Dに登場する部隊の合計

織田軍

戦った 21,500

朝倉・浅井軍

戦った 21,000

織田軍兵の多い順

朝倉・浅井軍兵の多い順

  • 朝倉勢(追撃) 10,000
  • 浅井長政 総大将 8,000
  • 朝倉景恒 総大将 1,500
  • 天筒山城の朝倉勢 1,500

肖像画は Wikimedia Commons のパブリックドメインの画像です(後世に描かれた想像図を含みます)。

合戦の経過時刻は3Dの時計

  1. 元亀元年 四月二十日1章

    出陣越前へ

    元亀元年四月二十日、織田信長は三万ともいわれる軍勢で京を発った。名目は若狭の武藤氏を討つことだったが、狙いは、上洛の求めに応じない越前の朝倉義景である。徳川家康・池田勝正・明智光秀・木下秀吉らを従え、若狭を抜けて二十五日に敦賀へ入った。

  2. 四月二十五日2章

    天筒山天筒山・金ヶ崎を落とす

    二十五日、織田軍は天筒山城に攻めかかり、一日で攻め落とした。翌二十六日には、隣の金ヶ崎城を守る朝倉景恒も城を明け渡す。敦賀を押さえた信長は、東の木ノ芽峠を越えて越前の一乗谷へ攻め入ろうとした。

  3. 四月二十六日3章

    離反浅井長政、背く

    そこへ、思いもよらない知らせが届く。妹のお市を嫁がせ、同盟を結んでいた北近江の浅井長政が、朝倉に味方して兵を挙げたというのだ。前には朝倉、背後の近江には浅井。織田軍は挟み撃ちにされかけていた。お市が両端を縛った小豆の袋を送って危機を知らせた、という話は後世の逸話である。

  4. 四月二十七日4章

    撤退信長、退く

    信長の決断は速かった。わずかな供回りだけを連れ、西の若狭へ向かって真っ先に陣を払う。敵中に残る軍勢の後ろを守る「殿」として、金ヶ崎城には木下秀吉が残った。近年の研究では、池田勝正や明智光秀も殿に加わっていたと考えられている。

  5. 四月二十八日5章

    殿殿、追手を防ぐ

    金ヶ崎では、朝倉勢が退く織田軍に追いすがった。殿の秀吉らは、鉄砲で追手を防いでは退き、また防いでは退いて、若狭への峠道を西へ下っていく。徳川家康も殿に加わったとする話があるが、後世の記録によるものである。

  6. 四月二十九日6章

    朽木越え朽木谷を抜けて

    若狭の熊川から近江の朽木谷へ。この谷を治める朽木元綱が味方するかどうかで、信長の命運は決まる。同行した松永久秀が元綱を説き伏せ、一行は谷を抜けた。三十日の夜、信長は京へ戻る。従う者は十人ほどだったとも伝わる。

  7. 四月三十日7章

    帰京生きて京へ

    殿の軍勢も大きく崩れることなく京へたどり着いた。この働きで、秀吉の名は織田家中に知られるようになる。窮地を脱した信長は兵を立て直し、わずか二か月後の六月、近江の姉川で浅井・朝倉の連合軍と雌雄を決することになる。

よくある質問

金ヶ崎の退き口とは何ですか?

越前に攻め入った信長を、義弟・浅井長政の離反が襲う。前に朝倉、背後に浅井。信長は朽木谷を抜けて京へ逃れ、金ヶ崎城に残った秀吉らが殿を務めた。

金ヶ崎の退き口の読み方は?

「かねがさきののきくち」と読みます。

金ヶ崎の退き口はいつ・どこで起きましたか?

1570年、越前国 敦賀(元亀元年四月二十八日)で起きた合戦です。

金ヶ崎の退き口では誰が戦いましたか?

織田軍の織田信長、朝倉・浅井軍の朝倉景恒、朝倉・浅井軍の浅井長政らが戦いました。

金ヶ崎の退き口を3Dで見られますか?

はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。

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