山崎の戦いの解説
山崎の戦いは、1582年(天正十年六月十三日)に山城国 山崎で行われた合戦です。本能寺の変から十一日。中国大返しで戻った秀吉が、雨の天王山で明智光秀の「三日天下」を終わらせた。
- 年
- 1582年(天正十年六月十三日)
- 場所
- 山城国 山崎
- 時代
- 安土桃山時代
大河『豊臣兄弟!』での山崎の戦い
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』が描く豊臣秀吉・秀長兄弟の物語において、山崎の戦いは天下取りの出発点にあたる。本能寺で織田信長を失った直後、秀吉は中国攻めの陣を畳んで京へ取って返し(中国大返し)、わずか十一日で主君の仇・明智光秀と対峙した。
合戦の帰趨を分けたのは、両軍のあいだにそびえる天王山であった。この地を先に押さえた羽柴方が高所を確保し、山裾の湿地に展開した明智勢を圧して勝敗を決したとされる。「天下分け目の天王山」の語は、この一戦に由来する。敗れた光秀は落ち延びる途上で討たれ、その栄華は「三日天下」と呼ばれた。
弟・羽柴秀長もまた、兄とともに中国大返しを駆け、この決戦に加わったとみられる。山崎そのものは秀吉が主役の舞台だが、続く賤ヶ岳・四国攻め・九州平定で、秀長は「天下一の補佐役」として兄の覇業を支えていく。その最初の大勝を、布陣の動きとともに3Dで振り返りたい。
合戦の経過
- 大返し 中国大返し
本能寺の変からわずか十一日。備中高松から二百キロを駆け戻った羽柴秀吉が、摂津富田に四万の軍勢を集結させた。「主君の仇を討つ」――大義名分は、すでに秀吉の手の中にあった。
- 対陣 雨の対陣
六月十三日、雨。山崎の隘路を挟んで両軍が向かい合う。天王山と淀川に挟まれた幅一キロの回廊が、天下の行方を決める戦場となった。明智軍一万六千、羽柴軍は倍を超える。
- 開戦 申の刻、開戦
夕刻、雨があがる。円明寺川を挟んで高山右近・中川清秀の先鋒と、明智軍最強の斎藤利三隊が激突した。緒戦は明智方が押し込む。
- 天王山 天王山を制す
黒田官兵衛と羽柴秀長が天王山の中腹を確保し、山上から明智軍の右翼を射すくめる。後世「天下分け目」の代名詞となる山は、こうして雌雄を分けた。
- 渡河 池田隊、川を渡る
淀川沿いを進んだ池田恒興隊が円明寺川を押し渡り、明智軍の左翼に食らいつく。伊勢貞興・松田政近ら明智の諸将が次々と討死。戦線は音を立てて崩れ始めた。
- 崩壊 明智軍、崩壊
開戦からわずか二時間。衆寡敵せず、明智軍は総崩れとなった。光秀は御坊塚を捨て、勝竜寺城へと退く。
- 落日 三日天下、落つ
夜陰に紛れて城を抜け出した光秀は、坂本を目指す道中、小栗栖の竹藪で土民の竹槍にかかり果てたと伝わる。本能寺からわずか十一日――世にいう「三日天下」である。
登場する武将・部隊
この古戦場を訪ねる(京都・大山崎)
古戦場は京都と大阪の境、山城国乙訓郡の大山崎(現・京都府大山崎町)にある。勝敗を分けた天王山は標高約270メートルで、山頂まで遊歩道が整い、道中には旗立松や合戦を描いた陶板絵図が点在する。麓には秀吉が本陣を置いたと伝わる宝積寺(宝寺)や、千利休ゆかりの国宝茶室「待庵」もあり、天下取りの舞台と桃山文化を半日で巡れる。JR山崎駅・阪急大山崎駅から徒歩圏で、京都・大阪の双方から日帰りしやすい。
- 天王山(山頂・旗立松)
- 宝積寺(宝寺)
- 待庵(国宝の茶室)
- 山崎合戦古戦場の碑
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よくある質問
- 山崎の戦いとは何ですか?
- 本能寺の変から十一日。中国大返しで戻った秀吉が、雨の天王山で明智光秀の「三日天下」を終わらせた。
- 山崎の戦いはいつ・どこで起きましたか?
- 1582年、山城国 山崎(天正十年六月十三日)で起きた合戦です。
- 山崎の戦いでは誰が戦いましたか?
- 羽柴軍の羽柴秀吉、明智軍の明智光秀らが戦いました。
- 山崎の戦いを3Dで見られますか?
- はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。