木津川口の戦いの解説
木津川口の戦いは、1576年(天正四年七月・天正六年十一月)に摂津国 木津川口で行われた合戦です。石山本願寺へ兵糧を運ぶ毛利の大船団。焙烙火矢に焼かれた織田水軍は、二年後、九鬼嘉隆の燃えない大船で雪辱を果たす。二度の海戦を3Dで。
- 年
- 1576年天正四年七月・天正六年十一月
- 場所
- 摂津国 木津川口
- 時代
- 戦国・安土桃山
両軍の対陣
兵力の内訳3Dに登場する部隊の合計
戦った 7,500戦わず 6,000
本陣 10,000戦った 13,000
毛利・本願寺方兵の多い順
- 石山本願寺(顕如) 総大将 10,000
- 毛利水軍(六百艘) 6,000
- 村上水軍 4,000
-
毛利・小早川水軍(兵糧船) 3,000
肖像画は Wikimedia Commons のパブリックドメインの画像です(後世に描かれた想像図を含みます)。
合戦の経過時刻は3Dの時計
- 天正四年 夏1章
籠城石山本願寺、囲まれる
一向宗(浄土真宗)の本山・石山本願寺は、門主の顕如のもと、元亀元年から織田信長と戦い続けていた。天正四年、信長は本願寺を砦で囲み、大坂湾からの補給も断とうとする。籠城する本願寺を救うため、西国の毛利輝元は、海から兵糧を送ることを決めた。
- 天正四年 七月十三日2章
第一次焙烙火矢
天正四年七月十三日、兵糧を積んだ毛利方の船団が木津川口に現れた。村上水軍を中心とする七百艘とも八百艘ともいわれる大船団である。迎え撃つ織田方の水軍はおよそ三百艘。毛利方は、火薬を詰めて火をつけた焙烙火矢を次々に投げ込み、織田方の船を焼き払った。
- 天正四年 七月十三日3章
兵糧兵糧、本願寺へ
織田方の水軍は壊滅し、将の真鍋七五三兵衛も討ち死にした。毛利方の船団は木津川をさかのぼって兵糧を本願寺へ運び入れ、悠々と引き揚げていく。海の封鎖は破られ、本願寺の籠城はなお続くことになった。
- 天正六年 六月4章
大船燃えない船を造れ
信長は、志摩の水軍を率いる九鬼嘉隆に、焼かれない大船を造るよう命じた。伊勢で造られた大船は六艘。鉄の板で船を覆った「鉄甲船」だったとも伝わるが、どこまで鉄で覆っていたかには議論がある。天正六年六月、大船は伊勢から海を回り、紀伊の淡輪の沖で雑賀衆の船を蹴散らして、大坂湾に入った。
- 七月5章
第二次大船と大鉄砲
天正六年十一月六日、毛利方は再び六百艘ともいわれる船団で木津川口に攻め寄せた。待ち受ける九鬼の大船は、船に積んだ大鉄砲(大砲)と鉄砲を撃ちかけ、近づく敵の大将の船を狙い撃つ。焙烙火矢も、巨大な船にはかつてのようには通じなかった。
- 十一月六日6章
封鎖海の道、閉ざされる
毛利方の船団は打ち破られて西へ退いた。木津川口は再び織田方の大船に押さえられ、本願寺への海からの補給は断たれる。同じころ摂津の荒木村重が信長に背くなど、戦いはなお続いたが、本願寺は少しずつ追い詰められていった。
- 天正八年 閏三月7章
退去本願寺、大坂を去る
天正八年閏三月、顕如は朝廷の仲立ちを受け入れて信長と和睦し、四月に紀伊の鷺森へ移った。十年に及んだ石山合戦は終わる。のちにこの地には、豊臣秀吉が大坂城を築くことになる。
よくある質問
木津川口の戦いとは何ですか?
石山本願寺へ兵糧を運ぶ毛利の大船団。焙烙火矢に焼かれた織田水軍は、二年後、九鬼嘉隆の燃えない大船で雪辱を果たす。二度の海戦を3Dで。
木津川口の戦いの読み方は?
「きづがわぐちのたたかい」と読みます。
木津川口の戦いはいつ・どこで起きましたか?
1576年、摂津国 木津川口(天正四年七月・天正六年十一月)で起きた合戦です。
木津川口の戦いでは誰が戦いましたか?
織田方の九鬼嘉隆(大船)、毛利・本願寺方の石山本願寺(顕如)らが戦いました。
木津川口の戦いを3Dで見られますか?
はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。