摺上原の戦いの解説
摺上原の戦いは、1589年(天正十七年六月五日)に陸奥国 会津 摺上原で行われた合戦です。風向きが変わった一日。伊達政宗が蘆名義広を磐梯山麓に破り、名門蘆名氏を滅ぼして南奥州の覇者に立った会津の決戦。
- 年
- 1589年(天正十七年六月五日)
- 場所
- 陸奥国 会津 摺上原
- 時代
- 安土桃山時代
合戦の経過
- 内応 猪苗代、寝返る
天正十七年六月。蘆名の宿老・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、居城猪苗代城の門を開いた。会津の東の関門は一夜で崩れ、二十三歳の政宗が大軍を率いて摺上原へなだれ込む。
- 対陣 摺上原、対峙す
六月五日払暁。磐梯山を背に、伊達勢二万三千と蘆名勢一万六千が摺上原で相対した。蘆名当主義広は佐竹から迎えられた十六歳。老臣たちは、主家への結束を欠いていた。
- 西風 西風、蘆名に利あり
戦いは西からの風とともに始まった。砂塵を背にした蘆名の先鋒・富田氏実が伊達の先手を突き崩し、政宗の本隊近くまで攻め立てる。緒戦は、蘆名の勝ちであった。
- 風変わる 風、東へ返る
正午近く、風がふいに止み、やがて東へと吹き返した。砂塵は今度は蘆名の顔を打つ。好機と見た伊達成実と片倉景綱が横合いから突き入り、戦局は音を立てて傾いていく。
- 総崩れ 蘆名勢、崩る
一角が破れると、寄せ集めの蘆名軍はもろかった。宿老・金上盛備はただ一手踏みとどまり、伊達勢へ斬り込んで玉砕する。「蘆名の柱石」と頼まれた男の、それが最期であった。
- 日橋川 日橋川の悲劇
総大将義広は黒川へ奔る。だが退路の日橋川では、味方が焼き落とした橋に殺到した兵が折り重なり、濁流へ沈んでいった。討たれ溺れた蘆名勢は、二千とも三千とも伝わる。
- 会津平定 黒川、開く
数日の後、義広は本拠黒川城を捨て、実家の常陸へ落ちのびた。会津四郡に君臨した名門蘆名氏はここに滅ぶ。政宗の版図は最大に達する――翌年、小田原の秀吉が全てを呑み込むとも知らずに。
登場する武将・部隊
よくある質問
- 摺上原の戦いとは何ですか?
- 風向きが変わった一日。伊達政宗が蘆名義広を磐梯山麓に破り、名門蘆名氏を滅ぼして南奥州の覇者に立った会津の決戦。
- 摺上原の戦いはいつ・どこで起きましたか?
- 1589年、陸奥国 会津 摺上原(天正十七年六月五日)で起きた合戦です。
- 摺上原の戦いでは誰が戦いましたか?
- 伊達軍の伊達政宗、蘆名軍の蘆名義広らが戦いました。
- 摺上原の戦いを3Dで見られますか?
- はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。