合肥の戦いの解説
合肥の戦いは、215年(後漢 建安二十年)に揚州 合肥で行われた合戦です。孫権十万が合肥城に迫る。守るは張遼・李典・楽進のわずか七千。張遼は八百の決死隊で敵陣に突入し、退く孫権を逍遥津で追い詰めた。「遼来来」の伝説が生まれた一戦。
- 年
- 215年後漢 建安二十年
- 場所
- 揚州 合肥
- 時代
- 後漢末(三国志)
両軍の対陣
合戦の経過時刻は3Dの時計
- 八月 初日1章
来襲孫権十万、合肥へ
建安二十年八月、曹操が漢中に遠征した隙を突いて、孫権は十万の大軍で合肥に押し寄せた。城を守るのは張遼・李典・楽進の七千余。曹操が残した密封の教えには「敵が来れば張遼と李典が出撃し、楽進が城を守れ」とあった。
- 初日 夜2章
決死隊八百の壮士
張遼は「敵の陣容が整う前に、その鋭気を挫く」と決した。かねて不仲だった李典も「私事で公を忘れるものか」と応じる。張遼は夜のうちに八百の勇士を募り、牛を屠って酒宴を張った。夜明けとともに、彼らは城門を開いて打って出る。
- 二日目 夜明け3章
突撃「張遼ここにあり」
張遼は自ら先頭に立ち、数十人を斬り倒しながら孫権の本陣へ突入した。孫権は驚いて高台に逃れ、長戟で身を守る。呉軍は張遼の兵の少なさに気づいて包囲したが、張遼は幾重もの囲みを突き破り、取り残された部下を救い出すため再び敵中に取って返した。呉軍で敢えて立ち向かう者はいなかった。
- 攻囲 十日4章
攻城十余日の攻囲
士気を挫かれた孫権軍は、それでも合肥城を十余日にわたり攻めた。だが楽進の守りは固く、疫病も広がる。孫権はついに撤退を決め、諸将を先に帰した。殿は孫権自身と、甘寧・凌統・呂蒙らの精鋭であった。
- 撤退の日5章
逍遥津逍遥津の追撃
孫権の主力が去り、後衛が施水の逍遥津に残ったのを張遼は見逃さなかった。城から急襲した張遼勢に、孫権は橋の手前で孤立する。凌統は親衛の三百を率いて死闘し、甘寧は矢を射て応戦、呂蒙・蒋欽が防ぎ戦う。橋の板はすでに外されていた。
- 逍遥津6章
跳橋孫権、津を飛ぶ
「後ろに下がって助走をつけよ」——谷利の一言で、孫権は馬に鞭を入れ、板の外れた橋を飛び越えて対岸へ逃れた。凌統は部下三百を全て失い、鎧を着たまま川を泳いで生還した。張遼は孫権の顔を知らず、あと一歩のところで取り逃がした。
- 戦後7章
遼来来泣く子も黙る
七千で十万を退け、あわや孫権を討つところであった張遼の武名は江東を震え上がらせた。以後、呉では泣く子に「遼来来(張遼が来るぞ)」と言えば泣き止んだという。曹操は張遼を征東将軍に進め、合肥は魏の東の要として揺るがなかった。
超精密3Dで見ると合戦パスの特典

同じ場面を、標準の画質と超精密3Dで並べました。線を左右に動かして見比べられ、「引き」と「接近」で見え方を切り替えられます。超精密3Dでは、山肌の尾根と谷、3Dの森と岩、海や川の水面、田畑の筋、人の姿の兵まで精密に描きます。各合戦の1章目は、合戦パスが無くても超精密3Dで見られます。
よくある質問
合肥の戦いとは何ですか?
孫権十万が合肥城に迫る。守るは張遼・李典・楽進のわずか七千。張遼は八百の決死隊で敵陣に突入し、退く孫権を逍遥津で追い詰めた。「遼来来」の伝説が生まれた一戦。
合肥の戦いはいつ・どこで起きましたか?
215年、揚州 合肥(後漢 建安二十年)で起きた合戦です。
合肥の戦いでは誰が戦いましたか?
曹操軍の張遼、孫権軍の孫権らが戦いました。
合肥の戦いを3Dで見られますか?
はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。
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