小田原攻めの解説
小田原攻めは、1590年(天正十八年)に相模国 小田原で行われた合戦です。名胡桃城の一件を咎めた秀吉が、二十万を超える大軍で北条の小田原城を陸と海から囲む。山中城の陥落、石垣山の一夜城、支城の陥落の末に北条は降り、秀吉の天下統一は目前となった。
- 年
- 1590年天正十八年
- 場所
- 相模国 小田原
- 時代
- 安土桃山時代
両軍の対陣
豊臣軍 総大将豊臣秀吉 173,50010隊
北条軍 総大将北条氏直 54,0005隊 兵力の内訳3Dに登場する部隊の合計
戦った 173,500
本陣 15,000戦った 24,000戦わず 15,000
豊臣軍兵の多い順
肖像画は Wikimedia Commons のパブリックドメインの画像です(後世に描かれた想像図を含みます)。
合戦の経過時刻は3Dの時計
- 天正十七年 冬1章
宣戦名胡桃城の一件
天正十七年、北条の家臣が、真田の名胡桃城を奪い取った。大名どうしの勝手な戦を禁じた、秀吉の命に背く行いである。秀吉はこれを咎めて北条に宣戦を告げ、翌年の春、二十万を超える大軍で関東へ向かった。
- 天正十八年 三月2章
山中城山中城、半日で落つ
三月二十九日、箱根の山中城に、豊臣秀次の率いる大軍が押し寄せた。北条が箱根の守りの要として固めた城であったが、圧倒的な数の前に、わずか半日で落ちる。守将の松田康長は、城とともに討ち死にした。
- 四月3章
包囲小田原、囲まる
四月、豊臣の大軍は小田原城を取り囲んだ。城下をぐるりと堀と土塁で囲む「総構え」の中に、北条の兵およそ五万が籠もる。陸は二十万の兵で、海は九鬼嘉隆らの水軍で埋め尽くされ、小田原は外とのつながりを断たれた。
- 五月4章
長陣陣中の都
秀吉は力攻めをせず、腰を据えて囲み続けた。陣中に茶人や商人を呼び、淀殿まで招いて、包囲の陣はさながら一つの町となる。六月には奥州の伊達政宗が、死装束をまとって秀吉のもとに参じたと伝わる。
- 六月5章
支城支城、次々に落つ
そのころ、前田利家や上杉景勝の軍勢は、関東の北条の城を次々に落としていた。鉢形城が開き、八王子城は激しい戦いの末に落ちる。石田三成は忍城を水攻めにした。小田原の城内では、戦うか降るかの話し合いがまとまらず、のちに「小田原評定」と呼ばれた。
- 六月二十六日6章
一夜城石垣山の一夜城
小田原城を見下ろす笠懸山では、木立に隠れて石垣の城が築かれていた。六月二十六日、秀吉が本陣を移すと周りの木が切り払われ、一夜にして城が現れたように見えたという。「石垣山の一夜城」である。北条の将兵は大いに気落ちした。
- 七月7章
開城北条五代の終わり
七月五日、北条氏直は、自らの命と引き換えに城兵を助けてほしいと願い出て、城を開いた。十一日、父の氏政と叔父の氏照が切腹する。百年にわたって関東を治めた北条は滅び、家康が新たに関東へ移ることになった。秀吉の天下統一は、目前であった。
テスト対策要点まとめ・一問一答・流れ図
超精密3Dで見ると合戦パスの特典

同じ場面を、標準の画質と超精密3Dで並べました。線を左右に動かして見比べられ、「引き」と「接近」で見え方を切り替えられます。超精密3Dでは、山肌の尾根と谷、3Dの森と岩、海や川の水面、田畑の筋、人の姿の兵まで精密に描きます。各合戦の1章目は、合戦パスが無くても超精密3Dで見られます。
よくある質問
小田原攻めとは何ですか?
名胡桃城の一件を咎めた秀吉が、二十万を超える大軍で北条の小田原城を陸と海から囲む。山中城の陥落、石垣山の一夜城、支城の陥落の末に北条は降り、秀吉の天下統一は目前となった。
小田原攻めはいつ・どこで起きましたか?
1590年、相模国 小田原(天正十八年)で起きた合戦です。
小田原攻めでは誰が戦いましたか?
豊臣軍の豊臣秀吉、北条軍の北条氏直らが戦いました。
小田原攻めを3Dで見られますか?
はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。
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